京都川床の風情を
先人の想いとともに次代へ。
株式会社 鶴清
代表取締役 田中 信行さん幼い頃から鶴清の建物内を遊び場のようにして育ち、先代である父の背中を見てきた。「いつか自分が継ぐんだ」という意識を持ち続け、大学卒業後に京都吉兆で修行を積む。その後、鶴清の料理場を任され、4代目当主に就任した。
総ヒノキ造りの木造3階建ては昭和初期の宮大工の手によるもの。柱がひとつもない200畳の大座敷は圧巻の一言。その構造美を生む匠の知恵。欄間の透かし彫りなどに見られる超絶技巧。遊びを感じさせる数寄の意匠。客人を楽しませる心配りが建物すべてに表現されている。
Section 1大切に守り継がれてきた
古き良き川床のおもてなし
鴨川に納涼床が開かれると、京都に夏がやってきたと感じる。その起源は豊臣秀吉の時代に遡る。客人に少しでも涼んでもらいたいと考えた商人たちが川中に床机を並べ茶席を設けるようになった。おもてなしの気持ちから花開いた文化。以来、形を変えながらも先人の想いは途絶えることなく受け継がれてきた。
令和の納涼床にはカフェやフレンチなどの新しさが混じる。しかし、その一方で伝統ある風情を色濃く残している老舗料理旅館がある。京都五条の「鶴清(つるせ)」だ。昭和7年に建造された木造3階の立ち姿に心を奪われ、ひとたび中に入ると古き日本が広がっている。川床に出れば東山や比叡の山々が目に飛び込み、建物のほうへ向くと一面に張られた大正ガラスが青雲や緑をやさしく映す。そこに川のせせらぎと京料理、酒が加わり、五感を潤す。鶴清がずっと守り続けてきたおもてなしだ。
この文化をさらに次代へ。そのために現当主の田中さんは「初代や2代目、3代目が何を大切にしてきたのか。それを知ることから始めないといけない」と話す。まずは現代の私たちが先人たちの想いをきちんと受け止めて、それを未来へ指し示していくべきではないか。歴史に向き合うことが今、田中さんの重要な仕事のひとつになっている。
Section 2激動の時代を経ても
変わらないもの
歴史に目を向けるきっかけはコロナ禍だった。行動制限によって苦しい経営が続いた。「このままでは鶴清を守ることができない」。悩む中で、ふと頭に浮かんだのが歴史だった。
「お客様が歴史や古建築に興味を示されることがあったのですが、そこにあえて着眼していませんでした。しかし、コロナによって本業の飲食が滞ってしまったとき、歴史や建物の魅力がお客様とのつながりを生み出していることに気づきました」。
そのつながりは現代だけでなく、さらに未来にも広がっていくに違いない。
田中さんはすぐに行動へ移した。親族や元従業員など鶴清の歴史を知る人たちにコンタクトを取り、話を聞きまわった。専門家からも声がかかり、より深い話を聞く機会にも恵まれた。なかでも日本近代建築史の権威である京都華頂大学の川島教授が鶴清の建物に関心を寄せ、力を借りることもできた。
すると、今まで知らなかった歴史や建物の価値が次々と明らかになった。
初代が下呂温泉 湯之島館の建築美に魅せられ、その宮大工を呼び寄せた一大プロジェクトだった。太平洋戦争中には学徒動員の寮として使用され、終戦後はGHQに接収されダンスホールになっていた。外国人の背丈に合わせて、鴨居の高さを変えさせられた跡も残っている……
「そして何より先人たちの想いが、よりはっきりと浮かび上がってくるのを感じました」。
Section 3歴史をひも解けば
先人たちが語りかけてくれる
鶴清の建物は、創建時もひと際目立つ大きさだった。おそらく巨額の借金が必要だったはずだ。なぜそこまでの規模にこだわったのか。
「当時、結婚式の需要が高まり、より広い宴会場が求められていました。初代はその声に応えたいという気持ちがあったのだろうと思います。引き出物だった鯛の塩焼きは一人一匹。何百人という数を徹夜で焼き続けたそうです。夕暮れにうたた寝をしてしまい『あかんあかん』と己を奮い立たせたというエピソードも残っています」。
お客様に喜んでもらおうと必死に働く初代の姿は、父である先代にも重なった。「いいかげんなことをしてはいけない。ちゃんとやる」。父の口癖には初代や2代目が一生懸命築いてきたものを汚してはいけないという想いがあった。今ならそれがよくわかると田中さんは話す。
「鶴清を一代で築くことなんてできない。ご先祖様の努力の積み重ねによって今があることを身に染みて感じています。そして、その努力の源には、お客様へのおもてなしの気持ちと、より良い状態で子孫に襷を渡したいという願いがありました」。
Section 4さらに魅力を高めて
次の世代へ贈る
田中さんは今、調査した歴史をまとめ、社史の編纂に取り掛かっている。また、建物の歴史文化的価値を発信するために建築見学ツアーを開始した。さらに建物内を3Dで再現したデジタルコンテンツも計画中だ。
田中さんがめざすのは、単なる歴史の発信ではない。先人たちの想いや考えを丁寧に表現したコンテンツをつくり、未来へ届けていくことだ。歴史ブームにあやかったものでも、SNS映えをめざすものではない。だから急速に広がるような期待はしていない。
「一時的な話題は長く残りません。なぜなら、そこには心が通じ合うものが、いわば信頼や信用がないからだと思います。長い時間をかけて育まれていくものこそが信頼や信用です。だから歴史を伝えることもじっくり時間をかけて行う必要があると思います。もちろんそれは私たちのすべての仕事に言えること。おもてなしも同じだと思います」。
客人とのつながりを丁寧に育んでいく。それこそが先人たちが私たちに伝え、未来に託していきたいことではないか。田中さんは歴史をひも解きながら、そう強く感じるようになった。「もし未来の人たちが道に迷ったら、歴史が正しい道を見極める指針になればと思っています。受け継いだものをさらにより良いものにして次の世代へ届ける。私も先人たちと同じように、そこに全力を注いでいきたい」。