和菓子を未来へ繋げる
老舗製餡所の新たな一歩
株式会社 イマムラ
代表取締役 今村 吉伸さん高校を卒業後、定職につかずにふらふらしていたが、20歳の時にシステム会社に入社する。興味があったプログラミングの仕事にやりがいを感じるが、次第に会社の方針に疑問を感じ、家業に戻る。和菓子業界が右肩下がりの中、新しい挑戦を続け、業界を盛り上げようと奮闘している。
創業以来あんこ一筋。厳選された小豆と伝統的な製法、徹底した衛生管理にこだわった上質なあんこは京都の多くの老舗和菓子店で使われている。取引先から「日本でおいしいあんこといえばイマムラ」と賛辞を送られるなど業界での評価が高い。直営店である「味不二庵」に加え、「あんこ cafe Mifuji&」を京都にオープンした。
Section 1面倒なことを誰よりもやってきた
京都の製餡所
「こしあんと抹茶あん、白あん。トッピングはトマトとパイナップル、ピーナッツの3つ。ドリンクはコーヒーで」。好きなあんことトッピングを選び、もなかせんべいにはさんで食べる。そんな新感覚の和スイーツを楽しめるカフェが2023年11月にオープンした。
一番のオススメというトマトをはさんで頬張ると、トマトの酸味とあんこの甘さのハーモニーに驚いてしまった。その場ではさんで食べるから、もなかせんべいの香ばしさが鼻から抜け、パリッとした食感も楽しい。「トマトが意外においしいでしょう。酸味があるものはあんこによく合うんですよ」と話すのが、同カフェを手がける今村吉伸社長だ。
イマムラは創業90年を迎えた製餡所。京都の数多くの和菓子店から愛顧を受けている。
「私たちは『生あん』をつくり和菓子店に販売しています。『生あん』とは砂糖を加えていないこしあんのこと。それが和菓子店で加糖やアレンジをされ、芸術的な和菓子になります。当社の役割は和菓子のもっとも大事な“素材”をつくることです」。
着物などの伝統産業と同じように和菓子の世界も分業制が根付いている。明治大正の頃から和菓子の多様化が進み、いちばん手間がかかるあんこは製餡所に任せるというのが業界の常識だ。「製餡業の中でも当社は後発です。農家に生まれた祖父が和菓子店に丁稚奉公し、そこで腕を認められて独立・分業しました。祖父はあんこをつくるのがうまかったらしいです」。90年経てもお客様からの声は変わらない。「昔からイマムラさんはおいしいあんこをつくるね」と京都中の和菓子店が同社のあんこを選び続けている。
その製法の秘密を尋ねると、吉伸さんは「創業以来ずっと他社よりも面倒なことをやってきただけです」と答える。どこであってもあんこの製法に大差はない。小豆を蒸す、小豆の皮を剥ぐ、その作業ひとつひとつをどれだけ丁寧に行うかによって味が変わってくる。あんこの世界でも自動化や機械化が進み、同業者から見ればイマムラの製法は非効率でしかない。でも、その効率の悪さこそが祖父から受け継いできたもの。他社が真似できない手間があってこそ初めてイマムラのあんこになるのだと話す。
Section 2父の働く姿を見て他の仕事を志し、
システム会社に就職
祖父の時代のあんこの製造は夜中2、3時から始まった。小豆を煮るのに1~2時間、さらに小豆の皮を剥くのに1~2時間。午前7時までに作り終え、8時には和菓子店に配送する。どこよりも手間をかけるイマムラではこの時間が短縮されることはなく、先代の父も、同じ毎日を繰り返していた。
若い時、吉伸さんはそんな父の姿をまったく羨ましいと思わなかった。
「夜中から働き、午前中は配送作業に追われ、夕方はスーツに着替えて会合に出かける。一日中働き詰めなのに裕福そうには見えませんでした」。青年時代の吉伸さんにとって忙しい家業よりも安定して稼げる公務員のほうが遥かに魅力的だった。「中学3年の進路面談で『お金を稼げて定時に帰れるので公務員になりたい』と先生に告げたんです。すると母が愕然として後から『夢のない子に育ててしまった』と言われました」。
高校に入ると公務員への道からも遠くなる。学校にも行かず友達と遊び呆けていたが、二十歳の時に心を入れかえて大阪のシステム会社に就職した。
「私が小学生の頃に家にパソコンがあって、プログラミングに興味を持っていたんです。未経験でも応募できるシステム会社を見つけ、面接と試験を受けたら即入社になりました」。
ますます家業から離れていく吉伸さん。しかし、この一度のサラリーマン経験によって大きな転機を迎える。
就職した会社では顧客のシステム設計を通して様々な業務管理の手法を学ぶことができた。しかし同社自身も合理的に組織化されていたため、上司に確認しなければ自分の考えを行動に移せないことが多かった。吉伸さんは、自分の判断でお客様のために行動できない働き方に不自由さを感じ始める。一方、家に戻ると相変わらず父は夜中から働き続けていた。どこからそんな熱量が湧いてくるのか。いつの間にか父の姿に羨ましさを感じるようになっていた。
Section 3お客さんが喜ぶ仕事がしたい。
苦境であっても家業を継ぐ覚悟を決める
システム会社の仕事から気持ちが離れた時、吉伸さんは「自分はお客さんに喜んでもらいたいんや!自ら行動することによって誰かに喜ばれることがモチベーションになっていた」とはっきり気づいたという。
「興味のあることができればいいと思っていたが、何かが足りない。人からやらされるのではなく、お客さんに喜んでもらうため自ら商いをするほうが面白いのではないか。それで、ようやく父がなぜ頑張っていたかを理解できたんです」。
家業を避けてきたのは、親の七光りと呼ばれることも嫌だったからだ。しかし、お客様に喜んでもらえることができる境遇にあるのだから飛び込まないわけにはいかない。吉伸さんはシステム会社を退職し、「継がしてくれ」と父に頭を下げた。父の返事は「もう引き返せないぞ。その覚悟はあるのか」だった。
父が求めた覚悟とは家業を引き受けることだけではなかった。右肩下がりの和菓子業界を背負っていく覚悟があるのかという重みが込められていた。お中元やお歳暮の慣習離れとともに和菓子の需要は減り続けている。一方でコンプライアンスの高まりによって古い考え方のままではいかない部分も多く出てきた。同業他社と変わらない衛生管理を行っていたが、食品細菌検査を求められた際に多くの細菌が検出され、「こんなん腐ってんのと一緒だ」と怒鳴られて愕然とした。従来のままでいたら自社はもちろん和菓子業界が時代に取り残されていく。吉伸さんは手を尽くして衛生管理の改善を行い、1gあたりの細菌を2000分の1にまで減少させた。その成果は並大抵の努力ではないと衛生管理者からは太鼓判をもらえたが、覚悟を求められることは続いた。
なかでも吉伸さんがもっとも覚悟を必要としたのが設備投資だ。取引先から売上の約3割を占める商品アイテムを改変するという連絡を受けた。しかしそれに対応するには設備投資が必要だった。できなければその仕事は受けられなくなる。吉伸さんは決断を迫られた。父からは「今後この業界が右肩上がりになることはない。おまえもわかっているやろ。やめるんやったら今や」と勧められた。
「ものすごく悩みました。でも最終的にはやりましょうと、取引先に返事をしました」。吉伸さんがそう心を決めた理由はひとつ。お客さんに喜んでもらえることがしたいという想いだ。それができるなら家業も、そして業界も丸ごと背負っていくと前を向いた。
Section 4あんことの繋がりをつくり
和菓子業界の発展に寄与したい
和菓子は斜陽産業と呼ばれるなか、従来通りやっていても状況は悪化するばかり。吉伸さんは新しいことにチャレンジする決意を固めて動き出した。そのひとつが「あんこ cafe Mifuji&」のオープンだった。
「以前から直営店はあったのですが、小売のみでした。イマムラのあんこを気軽に食べてもらえるような場所があればいいと思い、カフェを構想していました」。そんな折に東京の旧ヴィーナスフォートへの出店オファーがあり、洋菓子店や豆砂糖専門店と合同でカフェを運営する機会を得た。そこで経験やノウハウを培い、今回の直営カフェを実らせた。
店内には「味不二庵」の商品「手作りもなかセット」も並ぶ。同商品もイマムラの挑戦のひとつだった。缶入りのあんこともなかのせんべいを分けて販売することで、自宅で作りたてのもなかを味わえるようにした。実はこの「手作りもなかセット」があればカフェのメニューを自宅で再現できる。
「カフェのメニューはあえて特別なものにしていません。味噌あんや抹茶あんも缶入りのあんこを使って誰でも簡単に作ることができます。トッピングも身近で買えるものばかりです。カフェであんこの新しい楽しみ方を知ってもらい、家でもやってみたいと思ってもらえるような流れをつくりたいんです」。
そう語る吉伸さんはカフェのコンセプトを『あんこで繋がる』コラボレーションカフェと決めた。若者を中心にあんこと接する機会は減ってきているからこそ、あんことの接点をつくりたいという想いをコンセプトに込めた。
パンにあんこと好きなトッピングをはさむ「あん&パン」や、ソフトクリームと合わせた「あん&ソフト」など、あんことスイーツの繋がりも提案していきたい。さらに「あんこのおやつ作り」のワークショップなども今後企画したいと考えている。カフェを拠点にあんことの接点が広がっていく。「あんこをもっと身近にしたいんです」。製餡所としての新たな一歩を踏む吉伸さんのチャレンジが、業界全体を上向けるターニングポイントになってほしいと願う。