スプリングと塗装機。
人の縁を育んできたモノづくり

株式会社 川口スプリング製作所

代表取締役 鬼塚 博幸 さん

事務機の営業をしていたが、先代の娘と結婚したことをきっかけに株式会社川口スプリング製作所に入社。義父から事業を承継した。博幸さんは常に謙虚であることが社長としてのあり方だと考え、公私混同は一切せず、社員と垣根のない関係づくりを大切にしている。

取締役 鬼塚 新二 さん
大学卒業後に三菱UFJ銀行に入行。ベトナムやニューヨークなどで海外駐在を経験し、外国政府機関や大手商社を相手に仕事をする。コロナ禍をきっかけに銀行を退職し、川口スプリング製作所に入社。銀行員時代には様々な製造現場を積極的に見学した。

極小から太物までのスプリング製造と自動塗装設備の設計・製造、二つの事業によって成長してきた川口スプリング製作所。現在はタイや中国など海外にも工場を持つことで生産能力を高め、シェア拡大を続けている。「スプリング」と「塗装機」という異なる事業を同時にまわすことがリスクヘッジにもなり、安定した経営につながっている。

Section 1

埼玉県川口市に本社を置く川口スプリング製作所。同社に関わる製品は、身近な生活のなかですぐ見つけられる。たとえばシャンプーボトルのノズルポンプ部分のバネがそうだ。ボトルをひと押しすればちょうどいい量が出てくる。当たり前のように使っているが、同社が製造した精密なバネのなせる業だ。そのシェアは国内80%を誇る。
さらに、公園の遊具からトラックのウイングまで、多様な製品に用いられる大小さまざまなバネを作っている。代表取締役の鬼塚博幸さんは「それぞれの用途や要望に応じて0.1mm単位から大型のものまで、どんなバネでも製造できることが当社の強みです」と話す。

一方、色鮮やかな化粧品ボトルも同社と関わりのある製品だ。各コスメブランドを象徴するかのようなその美しい塗装の多くは同社が開発した自動塗装機によって生まれている。化粧品ボトル以外にも車の備品から電子機器、おもちゃまで幅広い製品の塗装設備を手がけている。「塗装設備は、見た瞬間にキレイと思え、小さなゴミやほこりも入らないような精密度の高い塗装を可能にする設備を得意としています」。顧客の製品や製造環境によって塗装面積や乾燥時間などの条件が異なるため、すべてオーダーメイドで設計から制御、組立までを行うことが同社の特徴だ。「大手は既製品をつくって売るが、我々はひとつひとつお客様の要望に応えていく。それが他社と違うところです」。

同社の社訓は「逃げるな」から始まる。顧客からの要望が難題であっても、そこから逃げずに踏みとどまり、やり遂げる。その精神を貫き、他社にない対応力や開発力を培ってきた。社訓はそのあと、こう続く。「嘘をつくな」「数字に強くなれ」「スピード」。いずれもモノづくりにおいて大事な要素だ。「我々のメインは製造である。その心をいつでも忘れないことを肝に銘じています」と博幸さんは話す。

Section 2

製造に対してひときわ強い思いを持っている博幸さんだが、以前は異なる業界にいた。長崎から関西に出てきて事務機販売会社に就職。東京の支店に配属されたとき、川口スプリング製作所の先代社長の娘さんと出会って結婚。36歳のときに同社に入社した。
それから4年後、社長に就任する。
「自分は社長の器ではなく、ナンバー2という立場が好きだったんですが、先代から社長をやってくれと懇願されて首を縦に振りました」。

当時、先代は56歳だった。事業承継のタイミングとしては早いほうだ。
「先代は自分の体質と違う人間を早い段階で入れる必要性を感じていました。私にその体質があると見抜き、バトンを渡す決意をしました。そこは先代のすごいところです」。
先代は昔気質の職人肌で、営業は不得手だった。「競合他社が見つけた会社に強引に攻めていくような行き当たりばったりな営業方法。また、大阪に出張した際に突然1億円の機械を購入してきたこともありました」。そんな直感行動派の性格には戸惑ったが、先代がモノづくりに向かう姿には学ぶことが多かった。顧客の要望を叶える技術や理想形を突き詰める熱意、先代から製造への思いを受け止め、育んでいった。
一方で、会社経営においては先代のやり方では生き残れないと感じていた。先代もそれがわかっていたからこそ、博幸さんにリーダーとしての役割を譲ったのだ。

博幸さんは先代から託された役割を自覚し、改革に着手する。
前職では事務機の販売戦略に携わり、新しいニーズを見つけ、既存になかった営業領域を開拓してきた。その経験を同社でも活かしたのだ。既存のバネ製品を作り売るスタイルから、様々な業界製品の課題を解決するバネを開発・提案し受注を勝ち取るスタイルへ。いま日本一のシェアを誇る極小バネもここから始まった。先代が礎を築いたモノづくりに異質な博幸さんの経験が加わったことで、同社の成長が加速していった。

Section 3

36歳」は鬼塚さん親子にとっての転機なのだろう。息子の新二さんも36歳で同社に入社した。異業種からの入社であることも同じだ。新二さんは世界を舞台に活躍するバンカーだった。
中学生になって初めて携帯電話を手にしたとき、メールアドレスがアルファベットであることに衝撃を受け、「これからの時代は英語を話せないと生き残れない」と痛感。大学時代にアメリカ留学を経験し、メガバンクに就職した。国内の支店に配属されるが海外駐在を直訴しベトナムへ。政府機関や大手商社を相手に兆単位のファイナンスを動かした。5年後に一度日本に戻らされるが、希望していたニューヨーク駐在が決まる。
「ところが、すぐにコロナ禍になり、ニューヨークにいたのは2ヵ月だけ。現地での出社ができなくなり、日本に戻って昼夜逆転の生活をしながらニューヨークとやり取りを続けました」。新二さんはニューヨークで銀行員としての仕事をやり切ってから家業に戻ろうと決めていたが、「今が潮時なのかもしれない」と考え、銀行を退職した。

そんな新二さんに対して、父の博幸さんが最初に課したのが現場でモノづくりを一から学ぶことだった。だが、その日々は新二さんにとって辛いものだった。
「銀行を辞めてからは毎日、ボルトを締めたり、シールを剝がしたりといった現場の繰り返し。自分のやっていることに意味があるだろうか。銀行の業務との違いが大きすぎて咀嚼ができず、常にイライラしていました」。現場での単調な作業や些細な問題、それらに苛立つ自分に対しても許せない気持ちが募っていったという。

しかし、ある時、新二さんはモノづくりの本質を知ることになる。 
とある工場長から同社にこんな依頼の電話がかかってきた。昔働いていた会社で川口スプリング製作所製の塗装機を使用していて信頼性が高かったことを転職後に思い出した。新たに塗装機の相談にのってほしいと。
「自分たちが作っているものは20年、30年残り続ける。長く社会の中で利用され、その間ずっと評判を背負っているわけです。そういうことがわかってくると下手なことはできない。現場でのひとつひとつの作業への考え方が変わっていきました」。
もしかしたら父の博幸さんも異業種から製造の世界に入ったとき、同じ気づきを得たかもしれない。モノづくりの意味とは何か。その答えは簡単ではないが、時を経て新二さんも自らの経験のなかで理解していった。

Section 4

自分たちが作ったものから縁が生まれ、その縁は長い間ずっと残り続ける。だから1020年を経ても、再び仕事を依頼してくれる人がいるのだ。そうした経験を何度もするなかで、博幸さんは「縁」というものをとても大事にしている。
「私の好きな言葉に『飲水思源』という中国の故事成句があります。水を飲むときに、その水源に想いを馳せるということから転じて、昔受けた恩を忘れてはならないという意味があります。私たちはこの気持ちをもって仕事にも、顧客や社員にも向き合わないといけないと思います。また、人と別れるときに余韻をもって別れなさいと言っています。その方といつ再会し、再び強い縁が結ばれるかわからないのだから、別れのときの印象も大事にしないといけないと考えています」。
モノづくりとは、人の縁をつくっていくことでもある。
博幸さんが製造に対して強い思いを持っている理由には、そんな思想もあるだろう。
川口スプリング製作所に宿るモノづくりの心は、先代から博幸さんへと受け継がれたことでさらに重要な意味を持つようになった。今、新二さんはその心を受け止め、先代や父以上に育んでいこうとしている。

「これまでスプリングと塗装機の二本柱でやってきましたが、そこにもうひとつ環境設備を加え、三本柱にしたいと思っています。塗装機はどうしても環境負荷が高いものを排出してしまう。だからこそ塗装機をつくる我々が環境のことを考え、持続可能な塗装をお客様に提供していきたいです」。これまでの縁を大切にしながら、未来を見据えた新たなモノづくりでその縁をさらに太く、長くしていきたいと新二さんは考えている。
「石の上にも3年。家業に戻ってようやく父とまともに会話ができるようになり、自分のやりたいことが見えてきました」。そう話す新二さんに対して博幸さんは「まだまだ何を勝手なことをやっているんだ」と思うことも多いと辛口だが、新二さんが築いていく川口スプリング製作所の未来に大きな期待を寄せているに違いない。

株式会社川口スプリング製作所

〒332-0031 埼玉県川口市青木3丁目10-19
TEL:048-252-1234
URL:http://www.kawaguchi-spring.co.jp/

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